007シリーズ第25作のタイトル『No Time To Die』に続き、邦題も先頃『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』と発表された。これを機に007シリーズの邦題について考えてみる。

007映画の邦題には、“007”を冠してスラッシュを入れる慣習がある。起源は日本で1964に公開された第2作『007/危機一発』(リバイバル時に『007/ロシアより愛をこめて』へ改題)と、その歴史は長い。ただし例外として、“007”が区切れず一体化タイトルを採用した第1作のオリジナル邦題『007は殺しの番号』、小説邦題を引用した第5作『007は二度死ぬ』、第6作『女王陛下の007』がある。なお、コネリー=ボンド時代はタイトル・ロゴにもスラッシュが見られたが、ムーア=ボンドからは消えている。

法則が崩れたのはピアース・ブロスナンのデビュー作となった第17作『ゴールデンアイ』、第18作『トゥモロー・ネバー・ダイ』、第19作『ワールド・イズ・ノット・イナフ』。この3作では頭から“007”そのものが外された。

日本ではティモシー・ダルトンの時代から深刻な人気低迷が続いているが、配給会社UIPはブロスナンを新ボンドに迎え、NEWシリーズと銘打って従来のイメージ刷新を狙った。ロマンス映画かと錯覚させるアートワークも日本市場へ独自投入。女性層をターゲットにしたらしいが、007映画から007色を無くすかのような宣伝手法が上手くいかなかったことは、その後の興業成績から見ても明らかだ。

タイトルから“007”を公式に外したことは世の中に浸透せず、結果的に混乱を招いた。その後、ブロスナン=ボンドの最終作『007/ダイ・アナザー・デイ』が“007”を復活させたようだが、これは配給会社がフォックスへ変わった為だろう。

クレイグ=ボンドの4作を配給したソニー・ピクチャーズ時代にも奇妙な出来事が起きた。クレイグのデビュー作『007/カジノ・ロワイヤル』と続く『007/慰めの報酬』までは伝統通りだが、その後の『007 スカイフォール』と『007 スペクター』では“007”の後のスラッシュを外しスペースを空けている。歴代タイトルを併記して眺めると尚更、違和感をおぼえる。どんな合理的理由があったのか。摩訶不思議である。

そして、クレイグ主演の5作目『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』では従来のスタイルが戻ったようだ。これはソニーに代わって配給を担当する東宝東和の決断だ。

統一性の欠如は、シリーズがあまりにも長く続いていることが原因か。『007/タイトル』方式はどんな意図で決められたのか。遥か遠い昔のことで、当時現場にいた関係者はこの世を去っているか、引退している。由来や経緯を教えてくれる人間はもういないし引継ぎもない。日本ではこれまでに4回も配給会社が代替わりし、今が5社目。担当者も次々変わる。過去作は自社作品ではないので、基本的に自社が任された作品しか考えない。つまり、作品間の整合性を無視しやすい構造が出来上がっている訳だ。

勝手ながら当サイトでは現在、一体化タイトルを除いた作品の冒頭全てに“007”とスラッシュを加えることにしている。

邦題で特に残念に思ったのは第14作『007/美しき獲物たち』。“獲物”が何を指すのか、今もって分からない。それならば、原題の『A View To A Kill』にある“殺し”を使った、当初案と思われる『007/殺しはバラの香り』がよっぽど良い。

そして『007/慰めの報酬』。原題は『Quantum Of Solace』で、ここで差す“quantum”は“分量”の意、つまり“慰めの量”だ。これでは映画のタイトルにはならないので、辞書で見つけた別の訳語“報酬”をノリで採り入れたのが経緯ではなかろうか。個人的には素直に『007/クォンタム・オブ・ソラス』、若しくは単に『007/クォンタム』にして欲しかった。

こうして考えると、英語タイトルをそれらしく日本語訳にするのは骨の折れる作業ということか。それだけに『007は殺しの番号』や、基は小説のアイディアだが『007/死ぬのは奴らだ』をつけたセンスが眩しく見える。